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TOKYO FRONTLINE 2024


グランプリ

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齋藤裕太

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『自画像』

 

今回の作品はすべて、フィルム上のランダムな模様からできている。そのランダムな模様を自分が見て、そこに見えるものを連想ゲーム的に発展させていく。そして、ランダムな模様を元に、発展させたワードをプロンプトにして画像生成を行い、それらを再びネガフィルムに露光している。生成する際に使用するモデルは自分が普段撮りためた意味のない写真を学習させたものを使用している。このプロセスは画像生成技術でイメージが生成される過程を模倣したものになっている。
画像生成技術では完全なノイズのからイメージが作られる。仮に白いキャンバスをエントロピー最小の状態だとすると、完全なノイズとはエントロピー最大の状態と言える。一般の創作において、人は白いキャンバスにタッチを一つ一つ乗せていく様に、基本的に画面上のエントロピーを増やす行為を行なっていく。反対に、完全なノイズからイメージを生成するという事は画面上のエントロピーを減らしていく行為とも言える。これらは一見真逆の方向を向いている。しかし、ここで言うエントロピーを減らす行為とは、彫刻家やペインターが自然界の何かを見たり触れたりした時に訪れる直感めいたものを頼りに創作を始める事と同義と言えるのではないだろうか。だとすると、白いキャンバスからイメージを作る事と、完全なノイズからイメージを作る事は、一見真逆の方向を向いた行為に見えて、実はどちらも同じ方向を向いていると言える。
彫刻家のアルベルト・ジャコメッティは生前、対象をいかに見えるがままに表現するか、という事に取り組んだ。彼のデッサンや彫刻を見たら分かる通り、ジャコメッティが言う、見えるがままに表現するとは、単に見たものをその通りに表現するという事ではない。それは、学習によって完全なノイズからイメージを生成する事と同様に、見たものから生まれる直感めいた感覚によって「見えた」何かを表現するという事ではないかと私は考えた。
今作では画像生成技術を模倣し、トラディショナルな写真技法の中で自分が見たものから「見えた」ものを作品にした。

Instagram: @carnwo

準グランプリ

小松芭蕉

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​『表現の大陸』

2020年コロナ禍の中、隔離された自宅の一室で、過去の写真を整理していると、たまたま1枚の写真が目に留まった。
前年に行った北海道で撮った湖の写真だ。フィルムカメラで撮られたその写真は、粗い粒子が点在し、飛び気味なハイライト、潰れたシャドー、そしてモノクロに加工されていた。
加工したのは自分だろうが、そんな記憶が薄れてるほど、気にも留めていない写真だった。
それが突然、そのハードなモノクロの湖の中に、自分の精神が浸かっていくような感覚が迫ってきた。さらにそのまま、私の精神は深く沈んでいき、そしてその湖底に、途方もなく広がる、大陸とでもいうような情景が、脳裏に焼き付いた。
その体験は、これまでの世界の認識を変え、自分が見ているこの社会(内部)の外側に、途方もなく広い見えない世界(外部)が広がっているのだと考えるようになった。
私はコロナ禍で体感した、その大陸の臭気を辿るように写真を撮る。
時には複数回の多重露光、過度なレタッチ、洗剤を混ぜての現像など、あえてコントロールから逸脱することで、外部を呼び込むための賭けにでる。
この作品は、社会から世界へ、内部から外部へ、そこに通じる穴を探し、大陸への航海を試みようとする、写真による紀行録である。

Instagram: @bashow819

HP: bashowkomatsu.myportfolio.com/

 

 

準グランプリ

宮田恵理子

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『Anomalous Memory Lane』

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Anomalous Memory Laneでは、写真技術そのものにも言及ができるような、新しいドキュメンタリーの形を探して制作をしたシリーズで、タイトルの様に内容は変化していく作品です。私たちは写真が絶えず複製され進化している時代に生きているため、ヴァルター・ベンヤミンの非アウラ的な芸術表現の概念が私の中に内面化されています。iPhoneのLive Photographyの写真技術のように、数秒間の動いている動画が一枚の写真として扱われるようになったことで、本当に私たちがどのように様々なことを覚えているのかという根源的な方法でデジタル画像が近づいていると感じます。私たちの記憶が日々脳内で編集されていくということと同じように、現在の写真は瞬時に編集され、複製され、生きている様に変化し続けることを、自分の幼少期のアーカイブと、都市計画によって日々変化していった育った幕張の街並みを、様々な写真技術(インスタントな3Dスキャンや、AI、スマホや高画素デジタルカメラ)使用して表現しようとした作品です。

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Instagram:@eriko_m_t

HP​: erikomiyata.com

 

 

 

 

小山泰介個人賞

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HAN XIAO(カン・ショウ)

『durée』 

写真を見るとき、私たちはいつも自分の感情体験をそこに投影してしまう。例えば、高山の写真を見ると、山を越える疲れを感じ、森の写真を見ると、虫の鳴き声や鳥のさえずりが耳元に聞こえてくるように感じ、海の写真を見ると、潮の香りが鼻腔を満たすように感じる。これは、写真に記録された物理的な時間の中で、客観的な存在を超えた主観的な体験を感じていることを意味する。フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、このような客観的な物理的時間とは異なる、感情の経験に属する主観的な時間を「durée」と呼んだ。これがタイトルの由来でもある。

本作はベルクソンの時間論に基づき、現場で撮影した写真(情緒的時間)と現場で拾った、または現場を象徴する物品(物理的時間)を組み合わせることで、他の芸術とは異なる写真の独自の時間性を示し、異なる地域における複雑で立体的な自己認識を表現しようと試みた。

Instagram: @voodoohz

 

 

千葉雅也個人賞

WEI ZIHAN(ギ・シカン)

『何もしない、笑ってだけを言った』

「テーブルの上の温かいスープ、綿の服、永遠に閉じないテレビ」。私の両親はこのような伝統的な家庭で生まれ育ち、このように暮らしていた。父は3人兄弟の末っ子で、母は5人兄弟の末っ子で一人娘であった。一方、中国政府が「一人っ子政策」を推進していた1994年に私が生まれたが、両親は集団主義の時代を経て、彼らの生活にはその時代の習慣が持ち込まれていた。多くの家族がこの親密さの変化に直面している。私だけでなく、親密関係の中で、新たな親密で気まずく支配的な関係が形成していく。

 

しかしながら、私が両親の毎日記念写真を撮っていたら、笑ってだけを言った。

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後藤繁雄個人賞 

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SHIMIZU KEN

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留学へ向かう直前、地元で初めてカメラを買いました。それ以来、ずっと写真と関わってきましたが、⼤学を終える頃になっても写真というものがよくわかりませんでした。ある時から「写真と呼ばれるもの」を考えるために、写真を撮らずに写真と関わり、写真から離れて写真と関わる、そのように制作をしようと考えるようになりました。

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⼈が写真を⽬にするとき、多くの場合、被写体について話されることに気がつきます。「〜の写真」の部分はみえないものとして扱われるのです。私はこの「〜の写真」に関⼼があります。

(2024年9⽉20⽇)

Instagram: @nilism

HP: shimizuken.com

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港千尋個人賞

白石尚己

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『はるかなる影 “Close to you”』

まるで鏡を見ているような感覚に陥った。

長い光の筋が回りながら暗闇の中を横切り、どこまでも伸び続ける音に、僕は鏡から目が離せない。

目の前に現れる人たちは影や光線で溢れていた。

名もない僕は、自らの存在を忘れる。

Instagram: @inakano_prince

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名和晃平個人賞

中澤伶宇子

『Alter in Form』

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写真は非常に描写力の高いメディアです。
私は、自身のセルフポートレートを見たとき奇妙な感覚を覚えました。撮影された写真は、私の肉体とは全く異なる物であるにも関わらず、強烈な現実感と共感性を宿していました。
写真に写る身体と、実際の私の身体との間に差異は感じられず、「自分の身体と同一のものである」という認識をしたのです。
私は次に、これらのセルフポートレートをハサミで物理的に切断しました。そして切断されたパーツを再構成し、スキャンして、コンピュータ上で編集を加えることで自分自身の肉体を全く新しい形へと変えてみました。この再構築プロセスによって身体の部位ごとの境界線は曖昧になり、不定形の塊へと変容しました。
自分を構成するものが簡単に、「自分以外の何か」へと姿を変えることができたのです。
この瞬間、人間の身体性は文字通り崩壊しました。私はこの作品を通じて、自分の肉体が身体の定義から解放される経験をしました。
私たちの肉体は、容易に定義づけられるものではなく、非常に不確定で不安定なものではないでしょうか。
『Alter in Form』は写真という媒体を通して、その問いに答えを出すための一つの試みなのです。


Instagram: @ri._.07

多和田有希個人賞

中村直人

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『Essays for Life』

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私生活に絡みつき、また社会に属する上で無視できない建築や言語といった巨大なStructureに対してどう対処するか。西洋を起源とする集合住宅は島国でも繁茂しつづけ、都市で生活する人々のプライバシーを守る一方、社会との関わりを希薄にした。近年ではパンデミックや戦争によって、その傾向に拍車がかかりつつある。

「Scene」シリーズは、そのようなStructureに対して反逆するほどの気力は有しておらず、真っ当に助けの声をあげることもしない人々の生活を切り取ったものだ。漠然と迫りくる終焉に対して、どこかここではない遠方へと憧れを抱きながら独自の身振りで抵抗あるいは逃走を試みるその風景は、国家や時間を曖昧にする。

「Contiguous verandas」は島国の集合住宅が立ち並ぶ地域で、とある部屋から見えた景色を写していったシリーズである。そしてそのモノクロ風景写真を通して、海を超えた人々に連想する事柄や思い出について語ってもらった。閉塞感ある生活への抵抗として、遠方との繋がりを確かめる作業である。


Instagram: @naoto0_0

HP: naotonakamura1.com

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川島崇志個人賞

VIOLA NIKLAS(ビオラ・ニコラス)

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『Canonical Photography』

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「カノニカル・フォトグラフィー」は、視覚的な習慣や価値観がどのように写真のカノンを形成し、それが写真の実践と認識にどのように影響を与えるかを探る作品だ。この作品は、写真が写真家の意図的な決定の結果であることを示している。作品は、フェスティバルや大学、博物館といった視覚的慣習を支えるインフラストラクチャーについても考察し、これらの空間がイメージの「良さ」や「価値」をどのように示唆するかを分析している。最終的に、この作品は写真の歴史が教育と集団的視覚記憶にどのように影響を与え、それが私たちの視覚習慣や社会文化的視点をどのように形作るかを省察するものである。


Instagram: @niklasviola

HP: nikviola.com

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大山光平個人賞

森田翔稀

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『多分人』

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3DCGのオブジェクトに、自分の撮影した皮膚をテクスチャーとして貼り付けると、自分の身体の一部が仮想空間に拡張されるような興奮があった。完全に仮想空間に移行するというよりも、私を規定している身体が別の次元の依存先を見つけて自由になっていくような軽やかさを伴っていた。そのように制作したオブジェクトを仮想空間内の仮想のカメラによって撮影することで、証明写真のように、私がそこに存在しているという事実を複数性を伴って可能にしていくような感覚になっていた。


タイトルの「多分人」は、おそらくそれは人間でなのであろうという、虚実を超えて実存を認めようとする私の心の動きと、複数の分人のネットワークの束によって立ち現れてくる個人のちぐはぐさを含ませている。 化粧や美容整形、加工フィルター、仮想空間内のアバターのように、身体を加工し構成することとによって、既存の身体の枠組みや眼差しから逃れるように制作した。


Instagram: @shoki_morita​​

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